僕の”映画人生”のスタートになった作品が「GO」であり窪塚洋介さんだった。
今ではたくさんの映画を見るようになったし、こうして書かせてもらっているのだけれど、それも全部含めて今作のおかげ。
在日韓国人というバックグランドを抱えた主人公・杉原を窪塚さんが演じ、僕彼に飲み込まれた。
杉原の抱えていた偏見や差別による葛藤をラストで昇華するのだけれど、これほどの昇華という言葉が似合う映画はなかなかない。
それを実現したのは”痛み”を知り、それに素直に向き合うことができたから杉原の成長だと思う。
作品情報
制作年 2001年
制作国 日本
上映時間 122分
ジャンル ドラマ、ロマンス
監督
行定勲
キャスト
窪塚洋介(杉原)
柴咲コウ(桜井椿)
大竹しのぶ(道子)
山崎努(秀吉)
山本太郎(タワケ先輩)
村田充(加藤)
新井浩文(元秀)
あらすじ
在日韓国人の高校生・杉原は朝鮮学校に通っていたが日本学校に転校する。
しかし、父親譲りのボクシングと強気な性格で学校中から喧嘩相手の的になってしまう。
ある日、友人の加藤に招待されたパーティで、どこか陰りのある少女・桜井と出会い惹かれていく。
そんな折、杉原の朝鮮学校時代の友人が殺害された。
それをきっかけに、彼は桜井に在日韓国人という生い立ちを打ち明けるが…。
感想・考察
僕にとって”窪塚洋介”という俳優と「GO」という作品
この作品を書かせて頂くにあたって、まずは僕と「GO」について。僕が今こうしてたくさん映画を見るようになったのも、それについてあれやこれやと書いているのも全部含めて、この作品が始まりだった。つまり、僕の”映画人生”の原点になった作品。これを見て刺激を受けた人はたくさんいると思うし、映画にはそういうパワーがあるんだと気づかせてくれた。
現在、窪塚洋介さんはTVに出ないと宣言している。それは彼の役者、芝居者としての熱量がTVを飲み込んでしまうからだと思う。逆に言えば、TVが彼に飲み込まれてしまう。それほど彼のパワーは強烈。そして、そんなパワーを映画として表現できる俳優だ。実際、僕は彼に飲み込まれた。そして、映画はもちろんファッションアイコンとしても生き方にも影響を受けている。今作では最初から最後まで彼の表現する表情や言動、もう全てといっていいほどに魅せられた。そして、なんといってもラストの雄叫びに僕の心はブチ抜かれた。
彼は役者としてはもちろん、ドラッグの件や飛び降りの件で、一種の神格化された伝説的な存在になっている訳だけれど、僕は「GO」を見たときにそれを感じていた。だからといって僕が彼を崇拝しているとか信仰しているとか、そういうわけでもない。僕が感性が豊とか映画通だとか、そういうのでもない。ただただ、彼のエネルギーを感じて彼に飲み込まれてしまうような感覚を覚えた。飲み込まれると言えば、「空気に飲まれる」とか「波に飲まれる」というから、ネガティブなイメージを持つこともあるかもしれないけれど、そうではなくて飲み込まれて心地よかった。最初に今作を見たときには、その感情をうまく言葉にすることができずに僕は単純に「スゴイ」「カッコイイ」と周りに話していた。
窪塚洋介さんは「言葉はちから」という。それが最近は、ほんの少しだけ分かったような気がする。その気がしているだけかもしれないけれど…。今僕はこの映画を見て思ったことを言葉で、書くことで表現することができるようになった。それが窪塚さんのいう「言葉はちから」をすこーしだけ飲み込めたような気がして嬉しかったりする。
素直に生きることで全てを昇華させる
今作のクライマックスで窪塚洋介さん演じる杉原は作中で溜まりに溜まった鬱憤をラストで昇華する。在日韓国人としてけれの人格を虐げられていて、それによって感じていた葛藤を全部吐き出し、素直な自分になる。それによって恋人と結ばれる事になる。”素直に生きる”と言葉ではいうのは簡単だけれど、実際はそうでもない。社会にはたくさん悩みをかけている人がいるし、思い通りに行くこともそんなに多くはない。それと毎日毎日戦っている。言い換えると、終わりのない戦いに明け暮れている。そして、それは一生死ぬまでついて回るのだろう。だからその不満と一緒に生きなきゃならない。素直になるっていうのはそういうことかもしれないなんても思う。その不満とか葛藤とかネガティブなことも全部含めて一緒に生きること。それを人生から除外することはできないのだろうと思うから。
「鉄は熱いうちに打て」ということわざがあるけれど、僕は窪塚洋介さんの演じる杉原に同じような印象を受ける。このことわざは、「鉄は熱して軟らかくなっているうちに打ちつけて鍛えなさい。」ということのよう。杉原は高校生という若さもあり、人の言動をダイレクトに感じてしまう心を持っていてスポンジのようにたくさん吸収してしまう。それは良いことももちろんそうだけれど、在日という偏見や人種差別のことも。それでも、今作において彼が”素直になる”という成長を為すのは、偏見され差別され鉄のように打たれて打たれて”痛み”を知ったからだと思う。痛みを知るということは素直になることや自分を受け入れる器量を持つということ、それと似ているのかもしれない。
在日というバックグラウンドによって人に偏見を持たれ差別され、悲しさを覚えて遣る瀬なくなり葛藤する。そんな彼の内面に与えた影響だけなら、まだ耐えられたのかもしれない。けれども、それに加えて心を許した柴咲コウ演じる恋人の桜井にまで振られてしまう。振られるというよりは、父親からの教えで外国人に偏見を持つ彼女は彼を差別し拒んだという方があっているかもしれない。また、そうやって”外国人”をよく思わないのが当時の日本社会であり、それが当然という風潮すらあったんだろう。原作者の金城一紀さんは自身をコリアンジャパニーズだと公表しているけれど、彼も杉原と同じような差別を受けた経験があるのかもしれない。だから、その思いをぶつけるためにも、この物語を書いたのかもしれない。
鳥肌を信じろという 唯一鳥肌がたった作品
以前ある本で「鳥肌を信じろ」というフレーズを目にしたことがあった。これは、直感的に体が掻き立てる想いや感じたことを信じろということだろう。スタジオジブリの飛空挺をテーマにした作品「紅の豚」でも主人公であるポルコ・ロッソはいいパイロットの条件を「インスピレーションだ。」と答えている。つまり、彼は直感的なものが大切だというのだ。僕はこのインスピレーションだったり鳥肌を今作で感じて、ラストの杉原の雄叫びをあげるシーンで本当に鳥肌がたったのだ。だから、言葉で説明ができなくても、あの時感じた鳥肌は本物だったんだと今でも信じている。そして、桜井がラストでいう「その目で睨まれた時、背筋がゾクゾクして」というのも鳥肌のことで、彼のもつパワーに違いない。
それから、この鳥肌の立つ今作に巡り合わせてくれたのは今作のキャッチコピーだった。「国境線なんか、俺が消してやるよ」まさにコピーにキャッチされた僕は、キャッチコピーのキャッチコピーたる所以を直に感じてしまった。先日、読んだキネマ旬報から出版された「21世紀の淀川長治」には「映画と社会を繋げるのは、言葉だけなんだ」と書かれていた。正にこのコピーで僕は「GO」という映画と繋がることができた。そいう意味では秀逸なキャッチコピーだとも感じている。
そして、最後は先日「ブラインド・スポッティング」の試写会で窪塚洋介さんを生で見る機会をいただいたこと。連絡が来た時には本当に心が躍った。これも元の元をたどれば「GO」がきっかけだ。もちろん映画も秀作には違いないのだけれど、彼に会えるのが本当に嬉しかったし、映画ブログを続けていてよかったなとも思う。それから、今ならこの「GO」が無料で観れるけれど、本来なら見せないでほしいしお金を払ってもみる価値のある作品だなんても思う。僕は二、三年前にAmazonで観たのだけれど本当は映画館でみたいと思う作品。「GO」に出会えて本当に良かった。くさいけれど、ありがとうございます「GO」。ありがとうございます「窪塚さん」。