子どもたちは生きる上で、大切なことを知っています。
それは心の目で物事を見ているから。
本来は誰しもが子どもであった時があるので、本質的には誰もが生まれながらに持っているのかもしれません。
しかし、社会で生きるためという名目で、年を重ねることで、大人になる、と大切なことを託けて蔑ろにしてしまうのかもしれません。
作品情報
製作年 2010年
製作国 フランス
上映時間 97分
ジャンル ドキュメンタリー
監督
ジャン=ピエール・ポッツィ
ピエール・バルジェ
キャスト
ジャン=ピエール・ポッツィ
ピエール・バルジェ
あらすじ
フランス、セーヌ地方の教育優先地区(ZEP)にあるプレヴェール幼稚園が舞台。
ここでは3〜5歳の子供達が哲学を学ぶという世界的にも稀な教育が行われていた。
そんな取り組みを2年間に渡り追ったドキュメンタリー作品。
クラスを受け持つパスカリーヌ先生は、男女関係や人種問題、貧富の格差などをテーマに沿って子供達に、自分の頭で考えること、哲学することを伝えていく。
それによって大人たちもまた…。
感想・考察
哲学について
哲学というと、何やら難しそうで億劫というのが一般的には世間のイメージです。
自分はというと大学の講義で哲学の講義があったので履修していましたが、そこで語られるのは教科書の丸読みでした。
これが哲学なのか、と思うと全く面白みがわかりません。
哲学とは、古代ギリシアでは学問を指していて、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目指す学問。
生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追及する学問となる。というのが1つの哲学の定義のようです。
しかし、その講義も後半に差し掛かると、今ままでの講義とは打って変わって、教科書など全く読まなくなりました。
講師の方が出したお題についてみんなで考える時間になったのです。
この点は、今作で描かれていることと同じです。
今作で、描かれているのは子どもたちがテーマに沿って皆んなで話すことであり、それこそが”哲学する”ことでした。
皆んなで話すことというのは、当然意見が食い違います。
子どもなら尚更です。
大人であれば、そうはいきません。
なぜでしょうか。
それは、意見の食い違い=面倒と捉えているからではないかと思います。
大人になるということは、旧来的ではありますが一般論で言えば自分の意見を言わなくなることでもあります。
そう思うと、大人というのは実につまらないものです。
つまらないというのも、揶揄的に聞こえるかもしれませんが仕方のないことなのです。
そういう社会が構築されてきたのですから。
トップダウンや男尊女卑に年功序列に終身雇用。
経済成長の元に、これらの労働体系に重きを置いてきた日本社会において、好き勝手に自分の意見を言おうものであれば排除されます。
すると、上のいうことには逆らわず鵜呑みにすることこそが社会を生き抜く方法だったのは間違い無いのでしょう。
先日23歳になったばかりの、自分が成長した過程というのは、そんな社会背景が残るものの先人たちの歴史を見れば随分と緩和されら社会です。
本当にありがたいことです。
ありがたいと感じるのも、そんな旧来的な社会と今後の未来的な社会の両方を本や映画から学んだからです。
ありがたいと思うにも学びが必要なわけです。
そう思うと学びは本当に素晴らしいことです。
愛することは許すこと
この言葉は、他の講義の際に聞いた言葉ですが実に素敵な言葉であり、酷い言葉でもあります。
先述の自分の意見を閉じ込めるというのを少々揶揄的に表現してしまったわけですが、もしかしたらそれは愛故に閉じ込めていたのかもしれません。
この言葉を聞くと。そう思うから仕方ないと思うのです。
それの正誤について話したいわけでは無いのでおいておきます。
今作を拝見すると子どもたちは限りなく、正に近しいのでは無いのかと思うのです。
それは人を許すことを知っているからです。
許すというのも、先述したような意見を言わない方法論ではありません。
子どもたちは自分の意見を赤裸々に告白しますが、相手とそれが違っても構わないのです。
そして違いことを、快く容認してしまうのです。
本当に子どもたちはすごい。素晴らしい。
”哲学する”ことについて
哲学の概要が理解しようが、哲学を定義しようが、実際哲学することは何かと聞かれても大半の人間は戸惑うでしょう。
しかし、子どもたちはすぐに応えがあります。
それは、話すこと、頭で考えることだそうです。
単純作業や単純なインプットは早々とAIに奪われていくとすれば、今後も価値を生む、そして他の学問のベースになるのは哲学であり、”哲学する”ことなのかもしれません。
それも論理的なロジカルシンキングではなくて、人間的に感情論で。
好奇心を高揚させる教育について
既存の教育というと兎に角、暗記をしたりインプットによってその記憶力を問う形の勉強法が多用されていらようです。
その是非は述べるに値しないと思うので省きます。
ここで素晴らしいのは子どもたちはいうまでもありませんが、先生の教育法です。
既存の教育法であれば、先生は断言し物事を定義します。
しかし、今作では先生は断言しません。
疑問で子どもたちに投げかけるのです。
だから子どもたちの発言や考えに間違いはなく、全てが正解です。
自分の頭で考えたならそれで良いのです。
なんて素晴らしい教育法なのかと感じます。
その応えに関しても全くロジカルでなくても良く、感情的にアウトプットされた言葉でも良いのです。それがその子どもの個性ですから。
自分の発言に間違いが無いと知る子どもたちは好奇心にかられどんどん自分の思いを表現していきます。
みんなが表現者であり、アーティストであると感じます。
相手を傷つけてまで、好き勝手に表現して良いというわけでもなく、相手を傷つけてしまったら、その理由を子どもに問うシーンが印象的です。
そんな姿も正直に映しているのがこの映画をより素敵に見せてくれます。完璧じゃ無いからこそ人間的で心動かされるものがあるのです。
既存であれば、それはダメの一言で片付けられてしまっていたでしょう。
日本でできるか
この”哲学する”という教育が全てでは無いにしろ、この映画から日本の教育が学ぶ事柄は計り知れないとも感じます。
そしてそれを日本で完全で無いにしろポイントで導入することができるのか、という点がポイントです。できないでしょう。
というのも何かを子どもに教える教育というのは具体的で教育っぽいですから。
哲学はそれこそ学問としての位置付けも難しく抽象的です。
それ故、学問として承認するのが難しいのでは無いのかと感じています。
しかし、今後テクノロジーの隆盛が著しい社会において大切になる教育というのは、このような教育であると確信しています。
そんなことを教えてくれる映画でもあります。
リーダーとは何か ボスとは違う
今作であったのが、リーダーとボスの違いは何でしょうか?という問いです。
明確な応えの描写はありませんでした。
自分がここでいう所の哲学するとすると、リーダーは先頭に立って背中で見せるチームの指針となる存在であって皆んなと平等、ボスは周りとは上下関係で踏ん反り返っている存在では無いかと思います。
大人は質問の答えを、子どもは…
大人は質問の答えを考えるけれど、子どもは質問を考える。
パラドックス的でもありますが、これも限りなく正に近い意見に感じます。
これも子どもの好奇心を刺激する教育ができてこその回答でもあります。
旧来的な教育の元であれば、子どもであっても前者的な回答になってしまうのでしょう。
死んでる国がある。
先生が死について尋ねると、少女はそう応えました。
「死んでる国がある」と。ゾクッとしました。日本のことでは無いのでしょうか。
真意はわかりませんが、この子の目は鋭利で的を貫きます。
この他にも違いとは?貧しい人はなぜ貧しいの?愛とは?豊かってお金のこと?自由とは?など様々な質問が投げかけられていました。