サムとモリーの同棲、プロポーズ、そしてサムの死。
濃密な冒頭は、まさに”目が離せない”状態だ。
そんなストーリー性や展開力もさることながら、今作のポイントはカメラワーク・演出。
類を見ない作風で監督のセンスを感じる。
作品情報
制作年 1990年
制作国 アメリカ
上映時間 127分
ジャンル ドラマ、ロマンス
監督
ジェリー・ザッカー
キャスト
パトリック・スウェイジ(サム)
デス・ムーア(モリー)
トニー・ゴールドウィン(カール)
ウーピー・ゴールドバーグ(ブラウン)
あらすじ
同棲を始め幸せに満ち溢れた銀行員のサムと恋人のモリー。
しかし、モリーがサムにプロポーズした夜、暴漢がモリーを襲い、彼女を守ろうとしたサムは銃殺されてしまう。
天へ召されるはずのサムだったが、自分の死はある陰謀が渦巻いていることを知る。
モリーへの募る想いや遣る瀬無さ、それゆえに地上に止まろうとするサムだった。
そんな折に、霊媒師と出会い彼女の力を借りようとするが…。
感想・考察
恋愛映画はストーリー性
恋愛映画の共通項として語られるのはやはり、視聴者の共感を仰ぐストーリー性。
もちろん今作においても、それは例外ではなく純粋にモリーを想うサムの姿はファンタジックで有りながら感情移入せざるを得ない。
近年の恋愛をテーマした邦画であれば、いかに普遍的な日常を映画として切り取るかで、その人気が決まると言っても過言ではないだろう。
それが大衆に、つまりは恋愛観に刺さるからだ。
以前にも書いたが、「南瓜とマヨネーズ」「生きてるだけで、愛」「ピース・オブ・ケイク」あたりは、まさにその格好の例だろう。
近年は、いかに、その映画を通して”観客との親和性を構築するか”が、邦画における重点であるようにも思えるのである。
それに対して、いわゆる古い映画は、感情移入ではなく、映画らしい虚構の上に俳優が成り立っている。
というのも、最近書いた「カサブランカ」「ハムレット」はまさに、俳優陣が、”銀幕のスター”の名に相応しい、虚構とも思えるほどのルックスで”クサイ言葉”を発するからだ。
そして、今作における作風は、同じ男女の恋愛模様を描いたにも関わらず、現代のそれとは全く異なる。
自分は今作の肝はカメラワークと演出に尽きると感じた。
もちろんストーリーが観客の心を掴んだのは言うまでもないが、
カメラワークや演出が効果的だからストーリーが光るとも、ストーリーが観客を引きつけるからカメラワークや演出が光るとも言える。
だから、ストーリーの良し悪しでも優越の問題でもない。
高揚を生むのは、効果的なカメラワークと演出に有り
まず、冒頭の今で言うところのDIYのシーンにおける、カメラワークと演出は目を奪わられた。
二人の門出であり幸せの象徴である、あのシーンには多くの意味合いを感じた。
DIYは共同作業であり、それによって出来上がったのが、まさに二人が作り上げた結晶で有り、いわゆる”愛の巣”だ。
目には見えないはずの愛情を、家という形で具現化している。
そのあとすぐ後に起こる”サムの死”を突如降り掛かる不幸として、より一層、深刻化して見せているのは言うまでもない。
その”愛の巣”という幸せを具現化した存在と、”サムの死”を序盤に持ってくることで対比を生み、ギャップを作ることでそれぞれが一層観客に刺さるシーンになっている。
だから、間髪を入れずに幸せと不幸せを重ねるように、短時間で構築している。
それを創っているのが、まさにカメラワークと演出だと感じたのだ。
あの2つのシーンがさらに時間を空けて起こった出来事であれば、ここまで感情移入の効果を持たせる事は出来ないのだろう。
同棲、プロポーズ、そしてサムの死 濃密な冒頭
物語には起承転結なるものがあるわけだが、映画を4分割してそれぞれを当てはめるとするならば、30分前後で、それぞれの役目がくる訳だ。
しかし、今作はその起床の部分が非常に早い、冒頭の数分で、サムとモリーは”同棲”、”プロポーズ”、そし”てサムの死”が起きる。
これは他に類を見ない構成になっているようにも思える。
カメラワークや演出が肝だと言ったが、このように衝撃的な展開が、この観客を引き込む。
この展開力・ストーリー性は、監督ジェリー・ザッカーのセンスに他ならないと感じるのだ。