本当にジェームズ・ディーン演じるジムの抱えていたのは理由なき反抗なのか。否。
彼なりの理由もあって、ただその消化方法がわからない若気の至り故の反抗なのである。
ただ、消化方法を間違えば、若気でもそれは死をも招くパワーを持っていると示唆させる。
作品情報
製作年 1955年
製作国 アメリカ
上映時間 105分
ジャンル ドラマ
監督
ニコラス・レイ
キャスト
ジェームズ・ディーン(ジム)
ナタリー・ウッド(ジュディ)
あらすじ
17歳の少年ジムは泥酔のため、集団暴行事件の容疑者として警察に連行された。
彼は、そこで夜間外出で保護を受けた少女ジュディや仔犬を射って注意されたプレイトウ少年と知り合う。
3人は説諭の末帰宅を許された。
ジムの一家は転居続きで、つい最近この街へ来たばかりだったが…。
感想・考察
理由なき反抗と思春期と
ジェームズ・ディーン演じる主人公ジムや不良少年たち、そしてジュディ。今作に登場する子供達は皆、タイトルにあるように、思春期の”理由なき反抗”を抱えながら生きている。と思ったけれど、実際そうでもなくて、彼らなりの理由があって、それを具体化できていないだけなのだろう。それが若気の至りと呼ぶに相応しい現象かつ反抗であり、映画としてそのテーマを見事に捉えている。さらに、若気の至りでも、それは死をも招くパワーを持っていると示唆させる。
僕自身は特に反抗期がなかった。特に反抗する理由がなかったというか、単純に良い悪いの分別がついたのかもしれない。それは両親が僕を強制的に何かをさせることがなかったからで、自分で考えることができたからかもしれない。だから、両親に罵声を浴びせる同級生が滑稽で仕方なかった。それがまさに理由なき反抗なのだけれど、思春期だからといって、それを容認するのも意味不明である。普通であれば滑稽なんて言葉は使わないのだけれど、理由なき反抗によって誰かを罵倒するのだけは滑稽であるとしか言いようがない。ましてや、そのメインターゲットが自分を育ててくれた両親になってしまうのだから。
それでも理由なき反抗は至る所で起きているわけだし、いつかはその分別がつくようになるはずだとは思うけれど、教育が変わればすぐに解決するんじゃないかと思う。一億総中流社会を構築するために、強制がおこなわれて、反抗が起きるなんて悲しい限り。そいういう意味では、社会派映画でもある。少年少女の心理を的確に捉えたカウンターカルチャー的な作品であるとも思える。それによって、友人の死が起こるのだから、そこに隠されたメッセージは社会性に飛んでいる。
良い奴は死んだ奴らさ…
24歳の若さでこの世を去った伝説的な俳優ジェームズ・ディーン。僕が彼を認識したのは映画ではなくて歌で、それは佐野元春のアンジェリーナ。「ジェームズ・ディーン気取りのティーエイジ・ブルース」この歌に僕は尾崎豊以来の衝撃を受けた。
偉業を成した俳優が若くしてなくなると、神格化され伝説となる風潮を感じる。もう追うことのできない背中に夢や浪漫を感じることは夢見がちな僕の場合は特に腑に落ちたりもする。それは尾崎豊もそうだし、先日書いた「ダーク・ブラッド」のリバー・フェニックスもそう。そして、今作のジェームズ・ディーンもまた僕にとっては、夢や浪漫を語る上で欠かせない人物なのである。
そして、そんなことを思っているときに思い起こしたのが、映画「紅の豚」の「良い奴は死んだ奴らさ」という台詞。この台詞には様々な意味合いが込められていると思うのだけれど。置き換えてみると、そのアーティストや俳優のエッセンスとも言える神格化するに値するものが、映画として受け継がれていく。だから、やはり映画や作品として残る・残すことは意義があるのだなあと思う。僕も何か残したいし、神格化や伝説というのはもちろん格好いいけれど、どちらかといえば夢や浪漫を一生追いかけている人間でいたいものである。