映画「2001年宇宙の旅」監督・キャスト、あらすじ・感想 完全主義者キューブリックの描いた未来 奇想天外な中にリアリズム

映画「2001年宇宙の旅」監督・キャスト、あらすじ・感想 完全主義者キューブリックの描いた未来 奇想天外な中にリアリズム

映画「2001年宇宙の旅」の作品情報、あらすじ、感想、考察。

キューブリック作品を見ると言葉を失うような感覚を覚える。

それが完全主義者キューブリックと呼ばれる所以だろう。

彼の描いた奇想天外な2001年の宇宙やAIは実現しなかったけれど、寧ろそれがリアリズムでありながらファンタジーを思わせる。

作品情報

制作年 1968年

制作国 アメリカ、イギリス

上映時間 140分

ジャンル SF

監督

スタンリー・キューブリック

キャスト

ケア・デュリア(デビッド・ボーマン)

ゲイリー・ロックウッド(フランク・プール)

ウィリアム・シルベスター(ヘイウッド・R・フロイド)

レナード・ロシター(アンドレイ・スミスロフ)

マーガレット・タイザック(エレーナ)

ダニエル・リクター

あらすじ

月に人が住むようになった時代。

月のクレーターの地中から謎の石碑が発掘され、宇宙評議会のフロイド博士が調査に向かう。

それから18カ月後、最新型人工知能「HAL(ハル)9000型コンピュータ」を搭載した宇宙船ディスカバリー号は、デビッド・ボーマン船長、フランク・プールら5人のクルーを乗せて木星探査に向けて航行していた。

しかし、その途上でHALが探査計画に対して疑問を抱いていることを打ち明ける。

ボーマンとプールはHALの不調を疑い、いざというときはHALの回路を切断することを決めるが、それを知ったHALは反乱を起こす…。

感想・考察

キューブリック作品を見ると言葉を失うような感覚を覚える

感じたことは無数にあるはずなのに、言葉で言い表すことが”難しい”と感じる作品がある。

それが僕にとっては、スタンリー・キューブリックの作品。

先日書いたグザヴィエ・ドランの「わたしはロランス」を見たときにも似た感覚を覚えているけれど、ドランのそれとはまた違う感覚。

 

スタンリー・キューブリックは監督、脚本、製作といった映画に関わる事柄を、自ら網羅的に行う完全主義的な監督としても知られている。

これは言い換えれば、映画に対する極度のこだわりがあるということ、それとも同意であると思う。

 

今作は彼のそんなこだわりをダイレクトに感じることのできる作品だった。

というのも、映画を見ていると何かしら過不足が見つかってしまうことがあるのだけれど、それを今作は感じさせない。

つまり、スタンリー・キューブリックという完全主義者たる完全的な作品に感じた。

 

もちろん映画は何を以て完全とすべきかは不明確であり、完全などないというのが通例かもしれないけれど、あくまで僕の中で完全的であった。

そして、不完全だからこそ面白みや娯楽的要素が含まれているのかもしれない。

すると、もしかしたら今作は映画的ではない作品なのかもしれなかったりする。

キューブリックの描いた奇想天外な宇宙やAI 2001年と現在と

彼が今作を製作したのは、今から約50年前に当たる1968年。

今でこそ、今作のテーマである宇宙やAIというのは一般にも認識され始めていて、それぞれの研究や導入というのも進んでいる。

しかし、50年も前に宇宙やAIをこれ程までに具体的に表現しているというのは、単に映画監督という枠だけでは測ることのできない、先見の明があるのだと思う。

単に構想を巡らせるだけなら、当時でもそれは出来たのかもしれないけれど、映画という作品として後世に残している。

それが最早、僕には異様にさえ思えてくる。

 

実際、人工知能を搭載した宇宙船や人間の冬眠的なものといった彼の描いた2001年、世界は今尚、実現していない。

そのため、今作はリアリズム的でもなく、むしろ現代に見てファンタジックな印象を受ける。

すると、時間軸を超越しながらリアリズムでもあり、ファンタジックだったりもする。

そんな彼の構想は、リアリズムの前では変態であり奇怪に思われたのかもしれないのだけれども、その奇想天外な味が楽しませてくれる。

 

当時の彼が構想した、「2001年宇宙の旅」という世界観は今でこそ現実味を帯びて見えてくる節もある。

つまり、自分ごととして近い未来に起こりうる現象であると。

だから、現代だからこそ、今作を観る価値があったりするのかもしれない。

猿と宇宙は対比であり共通という矛盾を孕んだ演出

今作の冒頭では、猿や他の動物たちが食事や睡眠といった普遍的な行動をするシーンが目立つ。

なぜ、今作が宇宙をテーマにした作品であるにも関わらず、冒頭では真反対とも思われる猿のシーンを使用しているのか。

 

これは、単にその対比を魅せることで人類の進化を観せているのだと感じたのだけれど、観終わった後に僕が抱いたのは、食事や睡眠というのは普遍的といったように、人類は現在に至るまで猿だった頃から変わっていない生活のベースが確かにあるのだ。

もしかしたら、人類は猿ではないのかもしれないけれど、ここでは猿だったということにしておく。

なので、猿と宇宙は対比であり共通という矛盾を孕んだ演出になっていた。

 

多くの物語は対比しそのギャップを観客に魅せることや、共通という仲間意識的なもので感情移入を狙うことが多くはないか。

少なくとも、僕が今まで見てきた作品を思い返せば大体がそうだと思う。

 

しかし、今作における猿と宇宙は対比であり共通という矛盾であり観客を掴むことは二の次であるように思える。

それが僕を、彼がクリエイターではなく、アーティスト的な監督だとも思っている一つの理由。

 

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