映画「髪結いの亭主」監督・キャスト、あらすじ・感想 これぞフランス映画 そして官能の世界

これぞ所謂官能映画、フランス映画。
日常を切り取った映画にも見えながら、其処に垣間見ることのできる独特のフェティシズム。
大衆ウケはしないだろうけれど、愛のあり方や人間の本質を突くような衝撃的な作。

作品情報

制作年 1990年

制作国 フランス

上映時間 82分

ジャンル ドラマ、ロマンス

監督

パトリス・ルコント

キャスト

アンナ・ガリエナ(マティルデ)

ジャン・ロシュフォール(アントワーヌ)

あらすじ

アントワーヌは少年時代に理髪店の女性に恋をする。
歳を重ね他の理髪店で、美しい女性マチルドに出会い、一目惚れした彼は唐突にプロポーズ、そして2人は結婚。
念願の髪結いの亭主となったアントワーヌはマチルドとの濃密な生活を送ることになるが…。

感想・考察

文学的で哲学的で芸術的

フランスの日常的であるが故の文学的であり哲学的であるのこの感じ。
何処とは言えないのだけれども全体を通して、この世界観は何とも言えぬ心地良さを感じさせてくれる。
文学的、哲学的というのは「攻略法 難解なれば 悦び また多し」「物でも人でも ただ強く望めば手に入るもんだ」「失敗するのは望みが弱いからだ」こんな言葉たち故に。
その言葉たちが、妙に物語を締めてくれる。

フェティシズムとパラフィリアに学ぶ愛の姿

フェティシズムというと大衆的にはネガティブなイメージが強いでしょう。
自分ごととしても、そんな気持ちは少なからずあるもの。
俗に言うパラフィリアであり性的倒錯ですが、この物語におけるフェティシズムというのも、其処には綺麗に言えば愛があるから具現化した対象とも言える。
愛故のパラフィリア。
相手を認め許す。
そうするからこそ其処には本質的な愛の姿がフェティシズムという形で存在したのでしょう。
アントワーヌとマチルドからはそんな2人の愛の形を感じます。
しかし、それ故の別れ。それも何処か官能的です。そんなストーリー性も心に染み入る。

宝くじの非合理性と楽しみ方

宝くじを一枚だけ買う話というのは、非合理で一見粋な買い方であるように思わせました。
しかし、あるデータによればそれが一番宝くじの買い方では合理的であると言われている。
つまり、当てに行くための宝くじで有れば確率論なので兎に角、買えば当たる確率は上がるけれど、宝くじに求めているのは、その時の気持ちの高揚でありそのギャンブル性だという。
すると1枚だけの方がその高揚は高まるという。
正誤のある話ではないのですが、個人的には腑に落ちた考え方だったり。

2人にとっても幸せとは。結婚自体に幸せを追求するものではない

2人は子供を欲しがる事もなく、2人の幸せに2人以外何が必要か。という概念。
その様な愛の考え方。
それが故に子供は誕生するものであって、欲しくて作るというような物的対象として子供を考えること自体が間違っているのでは。
だから子供は愛の結晶なのでしょう。「ガタカ」でもそんなことがちらほら。
作りたいから作る其れは行為であって愛ではない様にも感じる。
だからアントワーヌとマチルドの姿は素敵だなと思ったのです。
2人は一応結婚という形をとりましたが、結婚が目的ではなくて2人で時間を共有することに目的があったと感じたから共感しました。
「息が止まるほど長いキスをおくるわ」…。なるほど。

過去を流すようにシャンプーを流す。しかし流れ切らない。

アントワーヌが1人店に佇み、客の髪を洗うシーンがある。
死を選んだ妻。
その過去を流すように、決して上手いとは言えないシャンプーをするアントワーヌ。
客の頭には泡が残りシャンプーは綺麗に洗い流されていません。
死を選んだ妻への思いは決して心から流せる物ではなくて、客の頭に残った泡の様に心に引っかかっていたものだったのでしょう。
そう考えると鋭い狙い。

過度な描写がない故のエロティシズム

過度な性的描写は有りませんでしたが、尚更フェチィシズムを感じました。

生と死の欲動であるエロスとタナトスを2人の愛と死から学び得る。

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