映画「コッホ先生と僕らの革命」哲学的で寓話的な教育映画 美しい風景・街並み・そして子供達

自分に沢山のことを与えてくれた作品。

映画で教育学というのも面白いそうだなあ。

サッカー関係者はもとより、教育者、資本家、雇用者、全ての人に見てもらいたい作品。

よくありそうな娯楽性の強いサッカー映画ではなく哲学的で寓話的要素がふんだんに含まれている。

美しい街並みに風景に、子供達の無垢な心と。

現代のドイツは部活動も廃止。次から次へと先へ。

 

おすすめ度5.0

作品情報

制作年 2011年

制作国 ドイツ

上映時間 114分

ジャンル ドラマ

 

監督

セバスチャン・グロブラー

 

キャスト

ダニエル・ブリュール(コッホ先生)

ブルクハルト・クラウスナー(グスタフ・メタフェルト)

ユストゥス・フォン・ドーナニー(リヒャルト・フォン・ドナー)

トマス・ティーマ

 

あらすじ

「ドイツサッカーの父」と称されるコンラート・コッホ氏。

時は1874年後半。

イギリス留学を経てドイツ初の英語教師として母校に赴任した彼は、資本者階級(ブルジョワジー)と労働者階級(ワーキングクラス)両端の生徒、その親族と向き合っていく事に。

そこでサッカーを通しスポーツ教育やフェアプレーの精神を伝えていく。

 

感想・考察

よくありそうな娯楽性の強いサッカー映画ではない

高校までサッカーをしていた自分ですが、サッカー関係の映画は殆ど見ていません。

否定的な意味では全くなくて、一例として少林サッカーを挙げますが、どうもコメディタッチ過ぎて娯楽的要素が多くて、それとしてしか楽しめませんでした。

娯楽が悪いとは全く思いませんし、物的に満たされた現代において寧ろ娯楽は多くの意味を持っていると思っています。

しかし、サッカーやスポーツ教育で伝える事はもっと他の側面なのではないのかなと個人的には思ってしまうのです。

 

 

美しい街並みに風景に、そしてサッカー

まずは映像ですが、ドイツが舞台ということで、人も建造物も街並みも風景もグラフィックが非常に綺麗でした。

また電信柱の建設による紙媒体からの情報伝達手段の移行という技術革新的な面も数秒ですが映されていて、制作における伝え方のさり気なさが上手いと感じました。

基本的に文化的なこともあり男性の服はジャケパンスタイルですが、先生の仕事着も生徒の制服も厳しい規律がないのか色や柄がアイデンティティにあふれていて素敵でした。

それと対比されるような形で、資本者階級の人々は、異文化であるイギリス教育を伝えようとするコッホ氏に対して「島へ帰れ」という表現で異文化を揶揄しているシーンが印象的でした。

ファッションにおけるアイデンティティは認知されてますが、思想におけるアイデンティティや新規的なものというのは否定的に捉えられるのも文化なのでしょう。

資本家階級の人間からすると、ファッションのアイデンティティは資本に悪影響を及ぼす可能性は低いため認知可能で、思想におけるアイデンティティというのは資本に悪影響を及ぼす可能性が高いからではないかと感じました。

つまり、サッカーにおけるフェアプレーやチームワークという思想というのは、社会主義的な側面が大きく、資本を築き上げた人にとっては邪魔な存在なのでしょう。

そういう面でも文化的な事を伝えてくれる映画で面白みを感じました。

 

自虐的表現と、その真意

さらにコッホ氏が自分に対して「紅茶のみ」ですよ。という趣旨の発言も深かったです。

半分想像ですが、イギリスはアフタヌーンティーなど紅茶を嗜む習慣があり、それを敢えて自分の思想はイギリス的です。と自虐的に表現したのだと思いました。

この真意は、自分をへりくだって表現し、認めてもらいたいという思いの表れでしょう。

 

無垢で強い思いは国境を越える

ストーリーはコッホ氏の教育的思想や生徒を想う姿勢が、生徒への指針となり国の視察団までを動かしたという、一見ありがちなストーリーかも知れません。

しかし、そこへ向かむまでのコッホ氏自身の葛藤や周囲からの文化的側面による反感など深すぎました。どれほど熱があっても権力者には逆らえなく、自分を変えるしかない。

というのも上手く描かれていました。

しかし、それでも願いが通じて市民をあげてサッカーを通し子供たちを応援する姿は本当に素敵で、スポーツの力を感じました。

最後の試合なんて、展開はスローだしサッカーとしては迫力はないけども、個人的にゾクゾクしてしまいました。

また、身体的に優勢性のない小さな子でもこうやって楽しめるスポーツはやはり素敵だなと思いました。

自分もそれほど身長も高くなく身体的に優位ではなかったので同じように思います。

 

家庭も学校もトップダウンが顕著な時代で

体罰の横行は当たり前で、しかし嫌なはずの体罰を受けてもなお、学びに対する生徒のポジティブに向き合う姿も印象的でした。

資本主義社会で成果を出した人は社会主義的な思想を嫌い、家庭でも外でもトップダウン(父親の発言が最優先)が当たり前で、労働者階級の人に対して嫌悪感を抱いているのも印象的です。

それでも日常を真っ直ぐに生きる労働者階級の人々の健気さが痛々しくて感傷的な気持ちに苛まれました。

生徒の成長を補佐するものであって先生の役割は生徒を従え矯正することではないと思うので、長いものに巻かれた社会なんて本当ろくなものではないと思ってしまいます。

資本によって差別が生まれ、そこから直ぐには這い上がることもできないのが当時の悲しい現実で、それに比べ現代は個人でも、事業で感情論でもスケールすることができる世界になって本当に良いと思います。

このレビューもこんな風に自分の考えを資本関係なく発信できることさえ歴史を見れば幸せなことです。

 

近代ドイツは部活動の廃止 次から次へ先をゆく

スポーツ教育の重要性を説いた映画ではあるけれど、現在は特にドイツなんかでは部活動も廃止で、比較的新しい映画なのに時代の流れを感じます。

それに対して日本の教育は大丈夫なのだろうかともおもいます。

個人的には中学までの義務教育の必要性は感じないですし、だからといって撤廃しろということでもないのですが。他に並行して教えることがあるだろうということは思うのです。

1つはアメリカ教育のように資産運用だったり株に関することこそ教育しなくてはならないとおもっています。国を挙げて行うベーシックインカムなんかもそうだけれど、国家が行うそれよりも自治体単位でも良いから他のことを教えるべきではと思います。

STEAM教育なんかももっと推進するべきでしょうし、プログラミング教育を始めるなんて言ってから日本は何年経っているのか。

やるとしたら自分が小学生くらいの時にやって欲しかった。

こんな過渡期に生きていることが辛いとも思ったりもするのです。

個人的にあと10年後とか10年前だったら時代に沿っていれば気が楽だったと思うので、そういきたかったななんて思ったり。

その時代を生きた人々を揶揄しているわけではありませんし敬意は勿論あります。

生きる上で本当に大切なことは働くことでもないはずです。

これだけ物的に満たされて飽和された現代だというのに働くことが美徳とされるような習慣はまだ残っていて、でも本来そんな時代はもう終わっています。

幸福度ランキングなど抽象的なランんキングほどあてにならないものもありませんが、個人が幸せと思えることを金銭的に左右されず継続できる社会になれば良いと思います。

自分が何が幸か分からない。見出せないのうな強制された教育なんて虚しい。

まあ自分もわかりませんが。

もっと自分の頭で考えて動いて幸せを自分で定義できるような教育や社会になれば良いのになとは思っています。

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