団円という形でシリーズの幕を下ろしたと思われたトイ・ストーリーシリーズ。
そんな折に、新作の発表。そして公開された「トイ・ストーリー4」。
自分の生まれる前年の1995年に公開された「トイ・ストーリー」。
自分がおもちゃを触りだした頃の1999年に公開された「トイ・ストーリー2」。
おもちゃはすでに手放し、スマホいじりの始めた2010年に公開された「トイ・ストーリ3」。そして、今作。
トイ・ストーリーシリーズは次々に続編を公開していきましたが、「トイ・ストーリー3」で円団と思われた方も多いはず。自分もその1人でした。
なぜなら、初作「トイ・ストーリー」では、ウッディをはじめとするおもちゃ達と持ち主アンディとの幼少期の絆を描き、「トイ・ストーリー2」で、ウッディ達はアンディのおもちゃ離れを危惧しつつも彼の成長を見守ることを決意し、「トイ・ストーリー3」で、大学進学を控えたアンディにウッディ達は別れを告げ、親戚のボニーへウッディ達は譲られる。
という形で円団の形でシリーズに幕を下ろしたと思われていたからです。
しかし、今作では…。
作品情報
製作年 2019年
製作国 アメリカ
上映時間 100分
ジャンル アニメ
監督
ジョシュ・クーリー
キャスト
トム・ハンクス/唐沢寿明(ウッディ)
ティム・アレン/所ジョージ(バズ)
アニー・ポッツ/戸田恵子(ボー)
トニー・ヘイル/竜星涼(フォーキー)
クリスティーナ・ヘンドリクス/新木優子(ギャビー)
あらすじ
アンディの元から新たな持ち主ボニーの元へ移ったウッディ達。
幼稚園へ行きたがらないボニーを見守るウッディでしたが、そこに現れたのはゴミで作られたフォーキー。
フォーキーは自分はゴミだと思い込みゴミ箱に入る事を望みむが、フォーキーがボニーの心の拠り所であると考えるウッディは彼を連れ戻そうと奮闘する。
そんな折、ウッディはアンティークショップで、かつてアンディの元でウッディと共に過ごしたボーの所有物と思わしきランプを発見する。
アンテークショップに潜入するウッディでしたが、そこで不良品のおもちゃ、ギャビーと出会うが…。
感想・考察
アンディの成長と共にあったはずの作品概念を覆す今作の意義
トイ・ストーリーシリーズ3作は全作を通してアンディの成長と共にあり、ウッディ達とアンディの別れは物語の終焉を意味し、視聴者がそのように思う(思わせる)構成になっていました。
さらにウッディ達とボニーの新たな出会いは、おもちゃとしての役割の帰還でありました。
これは制作側の狙いであり、視聴者を誘致するに相応しい”運び”になっていました。
この一種の美化され完成されたシリーズの幕の下ろし方に異論はないはずです。
それ故に、このシリーズが高い評価を得ているとも言えるでしょう。
つまり、「おもちゃ達のアンディとの別れとボニーへの帰還」というのは本来であればトイストーリーシリーズとして、これ以上にないとほどに円団の形なのです。
そんな折に、発表された今作「トイ・ストーリー4」。
これほどまでに完成度の高い物語に新たなページを加えることを、ネガティブに思った方も多いのではないでしょうか。
自分はまさにそう思っていました。
しかし、円団に次ぐ、さらなる大円団の形を目の当たりにし、心揺さぶられ、これでこそ「トイ・ストーリー」なんだ。
と確信しました。
すごい、すごすぎる。
圧巻の映像美
まず、今作において特筆すべきは誰の目にも明らかな映像美でしょう。
作品の中でどのシーンにおいても目が離せない3DCGを使った映像美です。
CGもここまで来たのか…できるのか…。
というそう想像を超えたレベルの臨場感に迫力。
その臨場感や迫力が裏目に出る程のサイコティックな演出も圧巻です。
もはやスリラー要素を含む映画を見ているかのような感情も覚えます。
冒頭の雨に打たれるウッディたちのシーンはシリーズ一作目の映像と対比されているという面でも注目のポイントです。
制作側はあえて映像技術の進歩として一作目との対比となるように、あのシーンを挿入したのではないのかと思われます。
もちろん物語との兼ね合いもあります。
今作の最大の魅力の1つである3DCGですが、トイストーリーシリーズを改めて思い起こすと、23年前のトイ・ストーリーシリーズ一作目のCGが一層凄みを増します。
というのも、今作は格段に進歩してはいることに異論はないものの、一作目のCGは23年前の作品とは思えないほどの完成度が高いからです。
当時一作目をリアルな世代で鑑賞したことのある方は、当時のCGに度肝を抜かれたのではないでしょうか。
そう思うと公開と同時に鑑賞した経験のある方のことを本当に羨ましく思います。
今作の実験性と制作側の”本気”
日本はもちろん世界的に大ヒットを収めているトイ・ストーリーシリーズですが、ヒットの背景には日本における神物に対する心理的背景が起因しているのではないかと考えています。
日本特有の考え方の1つに「八百万の神」という概念があります。
これは簡単に言い換えれば、全ての物に神が宿っているという考えです。
日本で大ヒットを記録し、6月末に中国でも公開されたジブリ作品「千と千尋の神隠し」にも八百万の神の存在が物語のポイントとして描かれています。
「千と千尋の神隠し」からもわかるように、日本の文化には八百万の神的な演出をすることで、高評価を狙えるのではないのか。
という仮説が立ちます。
日本では色濃く万物に神が宿るという考えは、言い換えれば日本人”モノ”に感情移入しやすい性質があるとも言えます。
それが今作においてもポジティブに作用したのです。
前作までのトイ・ストーリーシリーズでは、登場するおもちゃの視点で物語が描かれていたので、人体的であるということもあり容易に感情移入することができました。
一方で。今作では、その対象になるのは、本来”ゴミ”である「フォーキー」です。
おもちゃではない彼に感情移入するように物語が設計されていたということは、言い換えれば日本人的なターゲッティングになっていたと言い換えることができます。
つまり、日本人特有の八百万の神的な万物に感情移入することのできる性質に見事にマッチさせるような設定になっていたのではないでしょうか。
すると、今作は非常に日本人的な作品であると言えます。
これは長い時間をかけてトイ・ストーリーの制作側が特におもちゃに対して感情移入するよう、物語を構築して行ったことからもわかるように、前作までの作品でした。
言い換えれば、映画と人をおもちゃが繋いでいたのです。
今作で我々を繋ぐのは”ゴミ”のおもちゃです。
この点に制作側の本質的な狙いが隠されていたのではないのかと思っています。
しかし、今作の凄みは、これまでのトイ・ストーリーシリーズで蓄積してきた感情移入のポイントをおもちゃの枠を超えた”ゴミ”であるおもちゃにフォーカスした点です。
さらに、本来アメリカ映画にも関わらず、感情移入のポイントを日本的に絞った点です。
これは、非常に実験的で挑戦的な制作側のクリエイターとしての”本気”が見られるのです。
それ故に、集大成としての今作の意義が腑に落ちるのです。
本来おもちゃではないフォーキーにまで感情移入するように視聴者を巻き込み、八百万の神的な刷り込みの原理を活用し、4作目という形で実験的とも言える構成で製作・公開を行ったことにクリエイターとしての意義を感じるのです。
困難に立ち向かうおもちゃの知恵や勇気から得られる教訓
今作の肝となるフォーキーですが、彼はあくまでボニーによって”ゴミ”から作られた”モノ”です。
人間にも身体的な限界があるように、おもちゃにとっては更に制限があります。
人間に比べ体のサイズが小さなおもちゃは、身体的な優位性を覆すように知恵と勇気で困難に立ち向かいます。
そんな小さなおもちゃでも知恵を使い勇気を持って挑戦する姿は、子供の目に勇気を与えてくれるのではないでしょうか。
そんな教訓を示唆させてくれるのが、トイ・ストーリーシリーズの魅力であり面白さです。
物的に満たされた日本へのメッセージ
「所有から共有」「モノ消費からコト消費」「ビックからスモール」現在の経済の動向を示すこの言葉。
車を購入することは避けて車はカーシェアリング。
服は購入するのではなくレンタルサービスを利用する。
購入するのであればフリマアプリでうることを前提に購入する。
高度経済成長期のような量産すれば売れるようにな時代から個人に合わせたものづくりを行う時代へ。
現在の経済は既存の概念が崩れ新しいビジネスの隆盛という形で次々に変容しています。
そんな日本社会だからこそ、今作の強いメッセージが身に沁みるのです。
もちろん変化することは素晴らしいことであり、テクノロジーの台頭はポジティブに受け入れています。
しかし、今まで留意してきたはずの、モノを大切にする姿が失われているようにも感じるのです。
3Rという言葉は耳にするようになり久しいわけですが、自分ごととして実現できているかと言われれば正直怪しいのではないでしょうか。
この物語を通してフォーキーをはじめとするおもちゃ達は、身を持って”モノ”を大切にすることを伝えてくれているのように感じるのです。
本来おもちゃであるはずの彼らが、持ち主に遊ばれず持ち主を見守るという決断。
アンディの元を離れるという決断。
さらにボニーや仲間から…という決断。
どれほど心苦しいものか。
最もアンディの側に、そしてボニーを想っていたウッディの悲しい表情を見れば容易に想像がつきます。
ウッディのさらなる決意
アンディやボニーとの関係性において様々な決断をしてきたウッディですが、今作でも大きな決断をします。
このラストは正直まったく予想だにしていませんでした。というようりも、できませんでした。
何故ならウッディは以前までは、あくまでおもちゃであり持ち主がいてこその存在だったからです。
そんなウッディの決意を見ることができて良かったと心から思いました。
そんな姿から制作側の作り手としての”本気”や変化することの重要性を感じることができました。
言い換えれば、いかにも日本人的な共感をしてしまった自分です。いい意味で制作側の本気に包み込まれました。