時代を読み解き、的確なメッセージをくれるジブリはやはり凄い。
自分のことが好き?嫌い?普通って何?難しく抽象的な問いかけ。
しかし、その中にこそ考えることが生まれる。
それがジブリのメッセージなのかもしれない。
作品情報
制作年 2014年
制作国 日本
上映時間 103分
ジャンル アニメ
監督
米林宏昌
キャスト
高月彩良(杏奈)
有村架純(マーニー)
松嶋菜々子(頼子)
寺島進(大岩清正)
根岸季衣(大岩セツ)
あらすじ
札幌に暮らす内向的な12歳の少女・杏奈は、ぜんそくの療養のために海辺の田舎町に暮らす親戚の元へ。
彼女は過去のある出来事のせいで、現地の子供たちとも馴染むことができない。
ある日、長い間空き家になっている湿原の古い洋風の屋敷で杏奈な金髪の少女・マーニーと出会う。
感想・考察
時代を読み解き、的確なメッセージをくれるジブリはやはり凄い
今まで数々のジブリ作品をみてきたけれど、どれもこれもその時代に即した作品作りは今作でも健在。
則したといっても、もちろん先取り感はある。
もちろん、マスへ向けてはいるけれど何処までも読み解いていけるような深みのある作風は、よく考えなければ味わうことが難しい。
だから、ジブリ作品のメッセージは一見抽象的にも思える。
今作は特にそうかもしれない。
マスにとっては単純に綺麗なアニメーションや音楽に魅せられるのでそれはそれで1つの作品として成り立つ。
けれど、よく考えて見ることで今作の素晴らしさは、他の映画にはないほど相乗効果がある。
見て楽しむのが他の映画だとすれば、今作は見て考えてこそ楽しい映画になる。
だからと言って、正解があるわけでもなく、考えたからといってわかるものでもないかも知れない。
僕自身も考えてみたけれどわからない。
もちろん、是非論ではないので、ここに書く。
自分のこと 好きか嫌いか
冒頭で、すぐに重たいメッセージを見ることになる。
それは、杏奈の言う「私は私が嫌い」。
この言葉は、これから始まる物語の暗がりを示唆させるとともに、最終的なカタルシスを観客に与えるために大きなパワーを持っている。
結論から言ってしまう。
杏奈は自分のことが好きであるとまでは言えなくても、自分を認めらられるようになり、許すことができるようになる。
それが顕在化されたシーンが母親や友人との和解である。
それから、マーニーの本質を”知る”ことでもあった。
これは、杏奈の「私は私が嫌い」という内向性や自虐性の開放でもあり、物語の終着点であり、帰路でもあるのかも知れない。
そして、このメッセージは日本人にとっては特に普遍的なものかも知れない。
というのも、一概には言えないが日本人はへり下りの表現が多く、少なくとも過剰に表現することは少ないから。
多くの日本人は自分をへりくだった言動をとることは、一種のクールジャパン的なポジティブな側面もありながら、どこか悲しげにも思える。
そんな日本人のへり下りの表現と杏奈の内向的で自虐的な言動が重なる。
これが今作における、現代への問いかけにも思う。
「あなたは自分のことが好きですか?嫌いですか?」みたいな。
原作はイギリスの作家ジョーン・G・ロビンソンの児童文学「思い出のマーニー」だという。
それを今の時代に、映画にしてマスへ向けてくれるのがジブリのすごいと思うところ。
いくつかクエスチョンマークも
この作品をダメだとか、意味不明だとか、そんなことを言いたいわけではないけれど、少しクエスチョンマークのついた点もあった。
杏奈の保護者は、彼女を心配して「血が繋がってないからいけないのかしら?」と嘆く。
しかし、その次のシーンでは一方的に杏奈を送り出す。
ここに疑問が生まれた。
心配しているが故に送り出したのだろうけれど、急展開すぎて飲み込めない。
もちろん、今作の肝ではないのでスルーするシーンかも知れないけれど、心残り。
実際、そのシーンで杏奈は「うるさいヤギみたい」と愚痴をこぼし反発しているのだから、単に心配ではなく単に追い出したようにも見えてしまう。
なので、杏奈を送り出す経緯が薄味に感じてしまったのが正直なところ。
他にも、作中でタイトルが出るときの背景が、湿地の上・水辺の近くに線路が引いてあり大丈夫なのか?とも思ったりした。
ファンタジーがわからない人間なのではなくて、それ前までは杏奈の真摯な悩みを描いていたので、言わばリアリスティックだ。
それがいきなりファンタジックな世界に誘致されたことで釣り合いを感じることができなくなってしまったのだ。
言い換えれば、杏奈の現実を変えるためにファンタジーの世界に飛び込んだと知らせてくれたのかも知れない。
その後、杏奈は親戚の家に向かうわけだけれど、「おもひでぽろぽろ」を想起させる車が印象的。
それから、どこか「崖の上のポニョ」を緩和させたようなハンドリングも面白い。
効果的な小技がいくつも
今作は伝えたいメッセージは重たく、そこにフォーカスしがちだったけれど小さなこだわりがいくつもある。
親戚の家についた杏奈の目が捉えたのは、親戚夫婦の子供が彼らに宛てた彼らの似顔絵だった。
母親から追い出されるようにも思えるほど、唐突に家を後にした杏奈にとって両親の似顔絵をあの場面で、声もなく写す意味は大きい。
しかも、一瞬の出来事だった。
それを、こだわりを持って挿入するジブリのこだわりはやはり細部までクリエイター魂が宿っているとも感じる。
他にも出番こそ少ないものの重要な人物であるボートに乗る老人の姿も印象的。
杏奈のピンチを救うとともに、彼女の拠り所的になっていた感じもあった。
そして、この老人はヘミングウェイの「老人と海」にしか見えなかった。
水の上、ボート、魚釣り、老人。
厳密には違うけれど、インスパイアされていたのではないかと思う。
シリアスは物語の中に唯一のシーンが有名な台詞、「太っちょ豚」である。
内向的な杏奈がこれを発するのは驚きである。
さらに、言われた友人がこれをすぐさま許し仲直りしようとするのが印象的。
そして、マーニーと杏奈の目の色にも注目したい。
ブルーの目をしている。
でも、透き通った色ではないのも、また情緒的。というかシリアスな物語を連想させる。
結論はいいのだけれど、杏奈が孫でマーニーが祖母。
それなのに、名前に親和性がなかったことが少し引っかかった。
海外風なのか、日本風なのか統一して欲しかった。
普通って何?
「私は私が嫌い」と同じように、「普通って何?」も今作における問いかけでありメッセージである。
お祭りで短冊に願いを書く杏奈は「毎日普通に過ごせますように」と書く。
そしてこれは僕の好きな作品「GO」と似たメッセージがある。
そこで「普通って何?」と友人から問いかけられる。
これが観客への問いかけでもあるように思える。
近年は特に多様性や働き方改革やなんやかんやと色々と変革が起きている。
しかし、今作が公開された2014年といえば、まだ普通が一番という思考が横行していたと思う。
特に日本は普通が一番という風潮はまだまだある。
もちろん、それはそれでいいし、一億総中流社会の国づくりを行ってきた日本ではそれで仕方がない。
それが、当たり前だと育っているのだから。
でも、これからは違う。もっと自分を表現して、いわゆる普通じゃない・大衆的ではない自分でも良いのだと示唆させてくれる。
そんな、メッセージを残すから今作はすごいと思うわけだ。
さらに、映画の中に空想と真実が入り乱れており、物語の中に物語があるのが斬新だ。
架空の存在と思われていたマーニーが実は…。
そして、最後は色のついていなかったマーニーの絵に色がついて物語は終わりを迎える。
杏奈の心がマーニーによって満たされたように、色付いたことでカタルシスを生んだ。